所長あいさつ

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 私が最初に会計士関係に進もうと考えたのが大学の2年の時でした。

 あれから早半世紀もの月日があっという間に流れてしまいました。というもの未だこの道を究めたという気がしないからです。

 私は、那覇の西100キロに浮かぶ久米島はそのまた片田舎の島尻という部落で生まれました。最も今では道路は整備されカッコーのドライブコースになっていたり、ITによってスマホが「ハル(田畑)」にいても通ずるようになっています。

 高校時代は何としても大学に行くんだとの思いで必死に勉強し、そのかいあって琉球大学に合格しました。 

 苦労したつもりで入学した大学でしたが、時まさにキャンパスは学生運動が激しく、その情熱にも刺激されましたが、その前に一期先輩の従兄と、彼は電気工学に合格していたのですが、与儀公園の復帰運動の集会に参加しました。そこで、私は民衆の熱いエネルギーを感じ、与儀公園から県庁前までの長いジグザクデモに加わりました。それはとてもキツイものでした。ただ、私には角材ともって機動隊と対峙するだけの勇気などなく、小さい石ころを機動隊の手前に落ちる勢いで投げたにすぎませんでした。そうこうしているうちに私はあることがきっかけで、今でいう、落ち込んでしまいました。大学を辞めようかと迷うくらいでしたが、しかし、そのまま故郷へ帰ってくなどとても凌げるものでものでないこともわかっていました。

 そんな中、三人の青年が訪ねてきました。明るく爽やかな感じを受けました。青年たちは「自分のためだけにするのではない。」「社会に貢献していく生き方が大事だ」と情熱的に語りました。目から鱗が落ちました。この時の「社会に貢献する」という言葉が私のその後の生き方を決めた瞬間でした。これを機に烈々たる男女青年の熱気の輪の中にいながら、友人を訪ねては人生論万般にわたって議論を交わしました。当時、久米島高校から私費で本土の大学に入学した学生がいましたが、彼宛に手紙を出しました。すると、彼はわざわざ内地から私の首里の間借先までも訪ねてきたものです。

 一年ほどして、また自分にとって大難ともいうべきことが起こりました。顔に赤い斑点ができ、皮膚科にいくと「ハンセン病」と宣告されました。その頃の私のこの病気に対する認識は「不治の病」でした。先輩にも相談したのですが、私の下した決断は周りの、特に下の兄弟にも伝染させることを恐れて隔離施設に行くことでした。担当の方に連れられて、その道々、錯綜した気持ちを持ちながら、施設の門をくぐりました。そこで見たものは、私の想像を超えたものでした。ハンセン病特有の病気は直ったが後遺症として残ったいました。今でこそ、脳梗塞などで後遺症が残ることがあるのですが、それ以上のことと考えていいでしょう。人は皆優しく治療に専念していました。

 施設には一年ほどいましたが、その間いろいろ学ぶことができました。まず、通常ならなかなか読むことができない分厚い書籍を3冊ほど読むことができました。恐れ多いことながら、世界の偉人で流刑中にその人の重要な書物を執筆したとの知識もあったことから隔離については前向きに捉えることができました。簿記の勉強も少々しました。また、施設には自治会があって、そこの文化部という部署で働くこともできました。仕事といえば、施設からひそかに抜け出して、那覇の映画館でフィルムを借りてきて施設の皆さんために上映することもありました。さらに、当時は子供たちも多かったことからスポーツ大会も行いました。看護師さんの応援も交えての楽しいひと時でした。この施設で初めて経理の実務を経験しました(はずかしいくらいでいしたが)。最も、良かったのが、施設の皆さんが明るいことでした。外部から多くの人が訪れることも、選挙の宣伝カーが回ってきたり、同年代の看護師さんが体験学習で訪れることもありました。
 また、砂浜からは古宇利島が眺められ、どういう島かと想像を廻らしました。現在、その古宇利島には古宇利島大橋が掛かって観光名所になっています。時の速さを感ぜずにはいられません。その橋の入り口はちょうど50年前にくぐった施設の門の近くを通っていきます。後年、古宇利島へ車でドライブに行き、ついでに施設の中を散策したのですが、その当時の面影をわずかに残している感じで、その時であった人々は既になく、若者の姿も見当たりませんでした。「ハンセン病」の法律改正もあってか施設の雰囲気そのものも変化しているようでした。園を去る時が来ました。今は亡き多くの先輩や近くの部落の方々から激励されたことに感謝の意をここに留めておきたい。

 とにかく、当初ハンセン病は「不治の病」と思っていたのが、50年近くたった今、絶対に治る病気だと確信したものである。しかも早期発見、早期治療をすれば「がん」などとは比較にならないほど治りやすいものだ。施設で生涯を終えた人々に思いをはせたとき、哀悼の意を表すとともに、この時代に生まれた身の福運を感じたのである。ハンセン病の今があるのは多くの人々の闘いの賜物だったのだ。そしてハンセン病関係の法律改正に尽力した政治の力もあったことも後世に留めておくべきだ。

 ちなみに、この病気の伝染性については、私の周りから一人として感染した者はいない。感染力はほとんどないのだ。だからこそ、法律改正で「ライ予防法」が廃止になったのだ。以後、当病気の患者を誹謗中傷することなかれ。

(続く)

 

 

 

 

 

 

 この間、沖縄税理士会の初代事務局長をはじめ、経理学校の講師をしてしのいでいました。

 28歳の時、奮起して東京へ。アルバイトをしながら、神田神保町の専門学校へ4年ほど通うも、体調をくずして目標を達成できず、沖縄へ戻ってきました。

 しかし、人生悪いことばかりではない、「冬は必ず春となる」のとおり、琉球大学の大学院に合格。そこで、修士論文に合格し、晴れて税理士にも合格。この間、結婚して子供をもうけ家族に応援してもらいながらの目標達成でした。

 平成4年に税理士事務所を開業。あれから20数年、多くの人たちの激励やお世話もあって今までやってこられました。

 「もっとも苦労した(沖縄)人が最も幸福になる権利がある」、

   「あこがれの

       スイスかハワイか

          沖縄は

    「生涯青年

 これは私の「人生の師匠」の言葉である。その言葉の通り、私は、この年になっても未来を見据え前進する。

  前進、また前進、前進あるのみ

  そして断じて勝利するのだ

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 今、私が税務会計の仕事をしながら最もやりたいことは「ビジネスモデルの研究」です。

 沖縄は私たちが若いころに比べてどんどん変貌しています。つい最近(平成29年12月22日)の琉球新報の記事からすると沖縄の観光客数は900万人を突破することがほぼ確実なことが明らかになっています。私の記憶のなかでは、「600万」などとつぶやいたのがそれほど遠い昔のことではなかったような気がします。これを象徴するかのように、道路の整備、高層ビルの建設ラッシュ、大型クルーズ船の寄港、ハブ空港としての機能など枚挙にいとまがありません。鉄軌道建設の動きもあります。沖縄の未来やいかに?